蓮華草のブログ

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。(中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫)

ダンマ ~ 仏は法をのみ敬う

 パーリ語の「ダンマ」は、通常「法」「真理」などと訳される。最も意味が近いのは「法」と思われるが、法には決めごと(人が決めたこと)の意味合いがあるのに対して、ダンマにはそのような意味はなく、逆に決まりごと、不変のことわり、つまり客観的な真実、理法・法則、絶対的真理、さらには人として歩むべき正しい道などを意味する。そのため「法」という場合には「これは決めごとの意味ではありません」と但し書きが必要で、どちらか一方を使うとしたら「真理」を選ぶことになリ、これが理由かどうか中村元先生も「ダンマパダ」を「真理のことば」と訳しておられるが、ここではこのように前置きをした上でより一般的な「法」を使用する。

 「ダンマ」は今日のインドでもよく使われるそうで、こちらで事例が紹介されている。サンスクリット語の「ダルマ」ではなく「ダンマ」といっているのは、パーリ語の方がより世俗の言葉に近いということを思い出させる。

 「ダンマ」は「教え」と訳されることも多いが、例えば「人は必ず死ぬ」というのは「法」ではあっても「教え」とは言いがたい。また「教えを説く」はもとの言葉では「法を示す」と表現されている。「教えを説く」というと何やら上から目線で主観的な意見や判断を説教するようなニュアンスがあるが、もとの表現ではそれと違って客観的な真理・真実(法)を開示するという意味合いが強い。例えば「執着を離れよ」というような言い方はあまりされず、仏は「執着を離れた者は安らぎを得る」というように法を示して見せた。仏とは、己れ(主観)を無にして正しく法を覚った者(覚者=ブッダ)のことであり、仏は安らぎ(涅槃=ニッバーナ)へと続く正しい道(仏道)を説き示した。そして仏は法をのみ敬い、法を唯一の拠り所とした。