蓮華草のブログ

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。(中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫)

「おおやけ」に宿る言霊 (ことだま)

 台湾人で司馬遼太郎の通訳を務めた蔡焜燦さんは、「『おおやけ』の概念を日本人から教わった」と言っていた。これは奇妙な話で、台湾にも「公」の文字は当然ある。それなのにその概念を日本人から教わったとはどういうことか。日本語の「おおやけ」の語源を調べると次のようになっている。

原義は「おお」(大)「やけ」(家、宅)で、宮殿や屋敷などの大きな建築物を意味した。転じて、そのような場所で行われる仕事、その所有者、そこに住む人間などを意味するようになり、政府、朝廷、官庁、また天皇家や天皇、皇后、中宮などをもさした。
公(こう)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

 漢語の「公」の意味を調べても、これと大きな隔たりはないように思える。しかし「私」の字義を調べると事情が違ってくる。

(か)+厶(し)。厶は耜(すき)の象形。耜を用いて耕作する人をいう。(中略)公はその所を守る族長、私は私属の隷農で、本来対待(たいたい)の義をなすものではない。
私(漢字)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

 つまり「私」はもとは「私属の隷農」、つまり支配者である「公」に隷属する農夫のことで、公はその所有者であり、公と私はもともと相対的な意味をなすものではないというのだ。日本語の「おおやけ」には支配者の意味合いは希薄であり、所有者の意味は全くない。かつての日本の為政者たちが自分たちの所領で働く農夫たちを「私物」として認識していたとは考えにくい。一方、日本語の「わたくし」の語源は、これはよくは分かってはいないようだが、ただ日本の場合は初めから「おおやけ」に対する「個人」の意味で使われ、後に一人称代名詞として使われるようになったとのこと。中国語の一人称代名詞は「我」であり、「私」には代名詞の意味はない。

 日本でも大化改新によって「公地公民」とされ、土地や人民は朝廷のものとされた時期があったが、これは大宝元年(七〇一)の大宝律令の制定によって確立されてから、わずか四二年後の天平一五年(七四三)には、墾田永年私財法の成立によって崩壊している。もともと大和の国は大王(おおきみ)を盟主とし、独自の所領(私領)を持つ封建的な諸豪族による連合国家であり、このような共産主義的な制度は長続きはしなかったのだ。逆に鎌倉幕府の成立から紆余曲折を経ながらも明治維新まで封建体制が続いたのは、それがもともと日本の国柄に合っていたという面もあるのであろう。

 公的な事柄を意味する「公儀」という言葉は、これはもとは武家と区別して朝廷や公家(こうか/こうけ)を表わすためのものであったが、やがて公権力が武家に移ると将軍や幕府を指すようになり、江戸時代には幕府の代名詞となった。徳川幕藩体制において公の公たるものは幕府で、これに対しては諸藩は私であって諸藩の内政は私事であり、幕府がこれに干渉することは基本的になかった。また藩の家臣や領民たちにとっては藩や藩主は公であり、これ仕える各家のことは私事であり、藩が領内の各家のことに口出しすることもやはりなかった。さらには各家の家族にとっては家というものは公であり、家族の者はこれに仕えた。一方、封建制の対極にある中央集権専制支配体制では、上の者にとってはその下の者はいわば私物のようなもので、私物に「わたくしのもの」などはない。そして封建制の歴史と伝統に根付いた価値観を持つ国は西欧諸国のほかは日本だけなのだ。これが冒頭の蔡焜燦さんの言葉につながっていく。

 例えばペットは所有物といえばその通りだが、しかしそのような意識を持つ者はおそらくほとんどおらず、誰もが同伴者、あるいは家族の一員として認識しているであろう。日本の場合、縄文時代の遺跡からは埋葬された犬の骨が数多く見つかっている。もっともこの頃の犬は狩猟犬として活躍していたようだが。そして自分の子供のことを所有物と考えているだろうか。自分は子供を持ったことがないので想像するしかないが、おそらくそうは思っていないであろう。しかし今日では、子供は自分の所有物なのだから何をしようが勝手だ、とそのような料簡を持つ者もいるようだ。

 日本語の「おおやけ」と「わたくし」は漢語の「公」と「私」とはどうやら意味が違う。中華文明圏の人々の「公私」には未だに所有者と被所有者としての意識があるのではないか。ものの本によると、天安門事件が起き、国際社会から猛反発を受けた時、中国共産党の指導者たちは、自国民を殺しただけなのになぜそんなに非難するのかと驚いたという。これが事実ならば辻褄が合う。そして集団化が進み専制的になってきた日本の「公」と「私」も、これに近づきつつあるのではないだろうか。

 「おおやけ」は公共のような無味乾燥な言葉とは違って、古くからあり言霊を宿す、やまとことばで、何か特別な響きと意味や価値があるように思える。これはもとはまつりごとを行なう大和朝廷や民の上をおもい祈ってきた天皇など高貴なものを表わしていたことから来るのであろう。そして日本人は公に仕えることに大きな意味と価値を見出し、時にはこれに殉じてきた。このことが、蔡焜燦さんをして「『おおやけ』の概念を日本人から教わった」と言わしめた理由なのであろう。