一三〇、日本国の軍事制度に於ては部下統督の責任は事柄の性質により二筋に別れております。
(一) 一は統帥系統内に発生することあるべき事項であります。
即ち作戦警備、輸送、並びに陸軍大臣の開設したる俘虜収容所に輸送するまでの間に於ける俘虜の取扱い等は総て統帥系統内の事項として統帥関係者の責任即ち最終には参謀総長に属するものであります。本件に付て申しますればマレー半島に起った事件、バタアン半島の事件、船舶輸送中に発生した不祥事件等は未だ陸軍大臣の開設したる俘虜収容所に収容前の事件であります。その処理は統帥開係者に於て受持つべきものでありました。
(二) その二は陸軍大臣の行政管下に発生したるものであります。
即ち陸軍大臣の開設したる俘虜欧容所に収容したる以後の俘虜及び戦地 (支那を除く) 一般抑留者に対する取扱い等はこの部類に属します故に例えば泰緬鉄道建設に便用したる俘虜を如何に取級うやは陸軍大臣の所管事項であります。
私は右の中(うち)その (二) の事項に関しては太平洋戦争の開始より一九四四年 (昭和十九年) 七月二十二日迄の間は陸軍大臣として行政上の責任を負うものであります。
その (一) に関係しては一九四四年 (昭和十九年) 二月より同年の七月に至る迄の間参謀総長として統帥上の責任を負うものであります。また外務大臣としては一九四二年 (昭和十七年) 九月一日より同年九月十七日迄の間に敵国並びに赤十字の抗議等外政事項に開係したる事柄がありたりとすればこれまた行政上の責任を負うものであります。
内務大臣としては一九四一年 (昭和十六年) 十二月八日より一九四二年 (昭和十七年) 二月十七日迄に内地抑留者の取扱いその他につき何等かの事故ありたりとすれば、これまたその行政上の責任者であります。なおまた内閣総理大臣兼陸軍大臣としては俘虜処罰法等の制定に関し政治上の責任者であります。
しかしながらこれ等の法律上並びに刑事上の責任如何は申す迄もなく当裁判所の御判断に待つところであります。
率直に申上ぐれば私は私の全職務期間に於て犯罪行為を為しつつありなどと考えた事は未だ嘗て一度もありません。私としては斯く申上ぐる外はありませぬ。
一三一、以下私が陸軍大臣たりし期間に発生した問題の取扱いに関し発生した問題につき陳述致します。
俘虜並びに抑留者その他占領地内に於ける一般住民に対しては、国際法規の精神に基さ博愛の心をもってこれを取扱い虐待等を加えざること及び強制労務を課すべからざること等に関しましては俘虜取扱規則 (法廷証一九六五英文一二頁) 俘虜労務規則 (法廷証一九六五英文・一四頁) 等によりてこれを命令し、なおまた一九四一年 (昭和十六年) 一月陸軍省訓令第一号、戦陣訓 (法廷証三〇六九号) を示達し戦場に於ける帝国軍隊、軍人、軍属としての心得を訓説致しました。この戦陣訓は太平洋戦争に入るに 当り従軍者には各人にこれを交付しその徹底を図ったのでありました。(証人一戸の証言英文記録二七四三三) また検事の不法行為と称せらるる事項につき陸軍大臣たりし私の所見は法廷証第一九八一号のAに記載した通りであります。
一三二、次に寿府(ジュネーブ)条約に関して一言致します。日本は寿府条約を批准致しませんでした。なおまた、事実に於て日本人の俘虜に対する観念は欧米人のそれと異なっております。
なお衣食住その他風俗習慣を著しく異にする関係と今次戦役に於ては各種民族を含む広大なる地域に多数の俘虜を得たることと各種の物資不足と相俟(ま)ちまして、寿府条約をそのまま適用することは我が国としては不可能でありました。
日本に於ける俘虜に関する観念と欧米のそれとが異なるというのは次のようなことであります。日本に於ては古来俘虜となるということを大なる恥辱と考え戦闘員は俘虜となるよりは寧ろ死を択べと数えられて来たのであります。これがため寿府条約を批准することは俘虜となることを奨励する如き誤解を生じ上記の伝統と矛盾するがあると考えられました。そうしてこの理由は今次戦争の開始に当っても解消致しておりません。寿府条約に関する件に外務省よりの照会に対し、陸軍省は該条約の遵守を声明し得ざるも俘虜待遇上これに準じ措置することに異存なき旨回答しました。
外務大臣は一九四二年 (昭和十七年) 一月瑞西(スイス)及びアルゼンチン公使を通じ我が国はこれを「準用する」旨を声明したのであります。(法廷証一四六九・一九五七) この準用という言葉の意味は帝国政府に於ては自国の国内法規及び現実の事態に即応するように寿府条約に定むるところに必要なる修正を加えて適用するという趣旨でありました。米国政府の抗議に対する一九四四年 (昭和十九年) 四月二十八日付帝国政府の書翰にその旨を明かにしております。(弁護側証第二七七五号) 陸軍に於ても全く右の趣旨の通りに考え実際上の処理を致しました。
俘虜取扱規則その他の諸規則もこの趣旨に違反するものではありません。