香港に於ける英吉利(イギリス)の裁判は戦争犯罪か
一応取調べも一段落した七月の或る日、私は例によって取調室に呼ばれた。何時も主任の検察官一人で取調べているのに、今日は珍らしく二人の取調官らしい中国人が主任の取調官と並んで坐っている。今日は何か変ったことを始めるに相違ないという予感がした。新しく加った取調官の一人が私に対して突然「君は穂積重遠を知っているか」と聞くので、「あの人は日本の有名な民法学者です」 と答えると、「あれは日本の貴族だね」といったり、日本の高等学校ではショウペンハウエルの哲学を教えるだろうとか、日本で教育を受けたものか日本通を振廻していた。この男は自らは日本語を話さず通訳を介していたが私の言う事は確かに判るようだった。その次に日本の週刊朝日やサンデー毎日や日本新聞の切抜記事を蒐集したものを私に見ろという。これには日本の婦女子が米兵のため暴行を受けている記事や写真で満たされていた。敗戦日本の惨状を私に見せつけて彼等の所謂米帝国主義に対して民族的敵愾心を奮起せしめようとしたのである。
それについては今まで人には話さなかったがこのような訳があった。五月の二日の時、取調官は私から自白を取るべく色々なことを言って詰めよって来た。アメリカ帝国主義のために日本が植民地になっていることの感想なども聞いていた。私はその時ふと外(ほか)の事を考えた。当時私は、垢で汚れ破れ膝のところが継ぎの当った綿服を着せられていた。取調官と婦人の書記と、朝鮮人らしい通訳と向いあって坐るのであるが、私の獄衣が臭いため私と取調官の間を三米(メートル)程離していた。
私も検事の時、獄衣の臭いのはほんとに嫌であった。昨日は検事として犯人を調べていた身が、今は反対に臭い獄衣を着て、今まで蔑視していた中国人から取調を受ける。敗戦のみじめさと我が身の有為転変を思い急に胸に込みあげて来るものがあり、眼頭から不覚のものが落ちた。
これを認めた取調官は何故泣くかというので、そうとは言わず、先方の気に入るように「アメリカ帝国主義のため蹂躙されている日本国民の事を憶い、思わず失礼致しました」と答えると御意に召したような顔をして御座った。
君の今の考え方は非常に宜しいと御誉めの言葉を賜い、その考え方を忘れぬように中国人に犯したすべての罪行を自供し生れ変って日本労働人民のために努力するようと有難い (?) おさとしであった。
そこで調官は、田中という奴はこの手で攻めれば参ると考えて、私にそのようなスクラップブックを見せたのだと思っている。
次にその取調官は私に対して、君は関東州の法的地位について過去どのように考えていたかと訊ねた。私は前に述べたように、関東州は国際法上適法に日本が中国より租借権を得たもので終戦まで日本はこの地に絶対的主権を有し、これに基いて日本の国の法律に従って裁判検察の職務を行なったわれわれの行為は罪を構成せぬと考えていたと答弁した。
その取調官は「それでは訊ねるが、君はサンフランシスコ条約をどう思うか?」と来た。私は先方の御気に召すような回答をしてやろうと思って、いつも彼等共産主義者のいうように、「あの条約はアメリカが日本を永久占領するための屈辱条約だから、日本国民は努力して、将来必ず、これを撤廃せねばならぬ」と答弁すると、「だから君の考え方は不徹底だ、あの条約は将来撤廃すべきものではない。あの条約は日本人民にとっては始めから無効の条約である。何となれば、あの条約は日本の反動政府が、米日独占財閥の利益を代表して、その利益のために締結した条約で、日本人民には始めから効力を持たぬ条約だ。これと同じ理論で、日本が関東州に租借権を得たという日露戦争のポーツマス条約も、中国の封建王朝である清朝政府が、中国人民の利益に関係なく、勝手に当時の日本の反動政府と締結した条約である。これは中国人民にとっては勿論、日本人民にとっても無効の条約である。君等はこの無効の条約に基いて勝手に中国の土地である関東州に来て、中国人民の自由を奪い、これを検挙したり、投獄したりしたから犯罪になるのだ」と筋の通ったようで何処の世界にも余り通用しそうにもない国際法を述べはじめたので、私はこの際一つ思い切ってきいてやれと思って、「それでは香港はどうなりますか? あなたの見解によると香港は阿片戦争の結果、清国政府が人民の意思に反して英国に譲渡したのであるから右条約は無効である理屈になるがこれが返還を何故請求せぬか? また現在、香港に於ては英国の検察官や裁判官がイギリスの法律に従って中国人を検挙裁判しているが、これら英国人は、毎日毎日戦争犯罪を犯しているのか」と質問した。
これに対しては何等の解答をせずに次の註題に転じた。その時彼らのいうところによると、満洲におった日本人の中(うち)、戦争犯罪にならぬ人は、あの戦争に反対を主張していた満鉄調査部におった一部の人々、また「横行覇道」を行わなかった商人も犯罪者にならぬ、それ以外の者は全部犯罪者になる。
今回の第二次戦争の戦犯の処理については、従来の国際法によらず各国の国内法で処理出来るようになったと言い、朝日新聞社出版の極東軍事裁判の記録を印刷した黄色い表紙の図書を見せた。
私も永い間戦争犯罪処理に関する各国の取極めがあれば見たいと思っていたし、極東軍事裁判の詳細を知りたかったので、その記録を読ましてくれと要求したが、ただ表紙を見せられただけであったのは残念だった。
これを見せたのは、これだけ国際情報を詳細に研究して、君等の有罪を認定しているのであるから間違いないと宣伝しているに過ぎなかった。
このような前提を置いて、最後に三人掛の取調官で追及して来た。「君は未だ事件を隠している。この際全部残らず言って寛大な処理を受けよ。お前が偽りを言ってもここには沢山関東州の警察官や憲兵隊員が抑留されており、それ等の者がお前を告発しているし、また、関東州の住民について詳細な調査が行われている。関東州で田中の名前を知らぬ者は無い。関東州の住民からお前に沢山の告発が出ているから観念せよ」と自白を勤めるのである。
三人の中、今一人の取調官は理論的な事は少しも言わず、主任の取調官が詰問する傍から「田中(テンゾン)」「田中」と怒鳴りつけてばかりいた。これはまあ応援といったところであった。
私は事実についてこれ以上言うことはないと言い張った。
一部言わない事はあったが、どうせ向うに証拠が無い事が判っていたから、言わない事に肚を決めた。
それで、取調官に対し、私は自分の記憶していることは全部言ったが、何しろ長年月に亘っているので、こまかい事は忘れているものがあるかも知れぬから、あなたの方にある証拠を一つ見せてくれないか、 私はこれを見て事実あった事は認めるし、無い事はいくら何と言われても認める訳には行かないというと、君の事件に関しては多くの証拠があるが、その証拠を見てから君が認めたのでは、ほんとの坦白(タンパイ)にならない、それでは君を寛大に処理するわけには行かないから、よく考えて、証拠を見ないで自分から進んで供述しなければいけぬということで、その日の調は終った。
この日の取調をした日本語の判る取調官は相当のインテリらしく好感が持てた。 この取調を通して、中共のわれわれ戦犯に対する処理の方針を若干知り得たのは、私としては思わぬ収穫であった。この人は私の主任取調官の上席の人で各取調官を指導している人のように思えた。この人は、私に尚、余罪があるか否かを判断するためと私の抱いている関東州に関する法的性格について調査に来たものと観察した。
こんな事からして私に対する取調も最終的段階に来ていることと私に対する証拠はこれ以上無いという事を見透すことが出来た。
当時、現地である撫順の収容所に来て、取調や思想改造の最高指導をしていた人物は譚という男で、北京の中国人民解放軍の政治部スタッフだと言われていた。この人は軍人では無く、日本に留学していたことがあるかどうか知らぬが日本語も出来るし、政治部の中で日本問題研究の権威らしき学者風の人物で、この男が、取調が始まってからわれわれが帰国するまで収容所におって思想改造の最高指導をしていた。
今一人これと並んで主として取調の指導をしていた人は李という人物で、この人は後に判ったのであるが、最高検察庁の幹部級の検察官であった。
直接取調に当っている人は最高検察庁の検察官その他全国各地からの検察官であった。取調に当った人が全部検察官であったかかその他警察職員のような者も混っていたか明瞭でないが全部検察官ではなかったかと思う。
取調官の数は一時五十名位、これに通訳書記官が一名宛として、一時百五十名から二百名位の人が全国各地から撫順に招集されていた。
取調室も収容所の内部に数室の取調べ室を設けた外、収容所の外部にも四箇所の役所や事務所を微発して取調所に充て、外部で取調を受ける場合の護送用として常用自動車一台と囚人護送自動車一台、ジープ一台を使用していた。これが昭和二十九年三月から十二月まで続いたのであって、単に慢々的な取調であったし、極めて大掛りで莫大な費用を掛けた取調であった。
尋問調書は問答体にして記載し、毛筆ではなくペンで黒いインクを使っていた。日本と異なっているのは各頁に署名拇印するので拇印も指紋用の黒の印漿をその都度硝子に延ばして指紋の出るよう拇印した。
それから日本のやり方と異なっているのは、証拠書類もこれに認否をして署名拇印することである。
私の事件の証拠書類は関東州の警察官や憲兵が私の「罪行」を告発した書類、私が取扱った事件被告及び被害者の親族の私に対する告発書、元、関東法院の雇員で廷丁をしていた許(ばかり)の証人供述書 (これは謀略放火事件の公判に私が立会したというだけ)、旅順刑務所の中国人看守の謀略放火事件の死刑執行に関する証人供述書であった。
その外に前に述べたように私の関係した事件の新聞記事、満洲紳士録に出ていた私の写真、履歴の複写及び旅順刑務所の全景と刑務所の壁の落書、暗室、手錠、足枷、食器の写真が証拠品として集められていた。
その中に面白い証拠書類があった。私が保護観察所長をしていた昭和十六年九月十三日「司法保護記念日に際して」という題で大連放送局から関東州の人々に放送したことがある。その放送内容が関東州の警察協会雑誌に載っていた。この内容は、誤って共産主義の思想に迷った者も過去の思想を清算して更正の道を辿ろうとしている者に対しては暖かい援助の手を差し伸べて貰いたいと訴えると共に、刑余者に対しては共産主義の思想を清算し、日本が現代押し進めておる聖戦の意義をよく理解して大東亜建設のため挺身せられることを希望するというような反共宣伝であった。この雑誌の記事を御丁寧にも十二枚の写真に撮影してあった。この一枚一枚に、署名拇印させられた。
尚、中共では証拠品の写真と合○の継目にも契印をさせる。そうしてこのような証拠書類に署名拇印する場合必ずこれを証明する言葉を奥書させられる。例えば前述の放送記事の写真の奥書は「この写真は私が共産主義に反対し、日本の中国に対する侵略戦争を正当化するため中国人民を欺瞞するために行なった宣伝であります」と書かされた。このようにして一件の記録は極めて分厚なものとなり、美濃紙くらいの大きさで、厚さ二寸くらいの分厚いものになった。
記録用紙は、表裏使用出来る西洋紙を用いていた。
私だけ記録が部厚になったのかと思ったらその外の人も大体みなその位の厚みになっていたといっていた。
最後に取調をした検察官の終結意見書に署名させて取調は終った。これは各人の犯罪に対する検察官の意見を記載したものである。検察官の意見書に被疑者の署名を求めるところが日本と異なっている。
その意見書には、私が日本帝国主義の中国侵略に際して、植民地人民弾圧の機関である関東地方法院検察局の主要幹部である思想検察官次席検察官として中国人民弾圧のため不法な取調を為し、大連放火団事件・埃太(ママ)関係諜報事件に於て合計十四名を死刑に処し三十数名を重罪に処した外、自ら若しくは部下の検察官警察官を指揮して、経済事犯刑事犯等の名の下に合計一万名に上る中国人民を投獄その他の方法により処罰したものであるという旨が記載してあった。
その記載の中で特に不審に思ったのは、思想検事時代日本内地の一斉検挙に応じて関東州でもホリネス教関係治安維持法違反事件を検挙し日本人男女牧師各一名を起訴し執行猶予になった事件があるが、これは被告人が何れも日本人であるし、キリスト教関係の事件であるから問題になるまいと思っていたところ、終結意見書を見ると「日本の平和運動者二名を処罰し」と書いてあった。これを見て私は取調官に対し、あれは戦争に反対したから処罰したのでは無く、日本の国体を否定した運動だから治安維持法により処罰したのだと説明し訂正を求めたが、取調官は、君の考えはそうかも知れぬが、こちらか見ればあれは平和運動になるといって訂正に応じてくれなかった。そちらで勝手に判断して書くのなら何も署名拇印を求める必要は無いではないか。しかし強いて争う程の問題でも無いので言う通りに署名しておいた。
他の仲間の話ではその意見書の終りに、この犯罪者は既に悔恨の情があるから寛大なる処分を為すべきものと思料すというような意見を付してあったという事も聞いたが、私はそんな事が書いてあるのも見ず、そのようなことに関する話も聞かなかった。ただその意見書に署名が終った時、よく学習しろと注意を受けただけであった。仲間が嘘を言ったわけでもあるまいし、それかと言って最終の決定を見るまで、そんなことを口外したり書類を見せたりするのは軽率な事であるし、大体検察官の意見書に署名させることからして手続としてどうかと思った。