蓮華草のブログ

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。(中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫)

地道な破壊活動 #2 ガバナンスはなぜ崩壊するのか

 一言で言ってしまえば組織的に動かないからだが、では組織的に動くとはどういうことか、至極当たり前のことを見ていく。なぜそんな当たり前のことをわざわざ書くのかというと、そのような当たり前のことが、今や当たり前ではなくなって来ているからだ。

 その昔「新人類」などという言葉と共に「指示待ち族」という言葉が流行った。さすがに今では出版物などでは見かけないが、ネットで調べてみると数多く見受けられる。当時、一九八〇年代、何となくこの言葉に疑問を持っていたが、このコメントがそれを明確に物語っている。

指示なしで

各人が勝手に動いたら
おかしいだろ

http://yuruhonobono.blog.fc2.com/blog-entry-6.html

 様々な組織の中でも最も統制や組織性が要求される軍隊では、何事も上官の命令に従って行動しなければならない。各兵、各部隊が勝手に判断して行動していたのでは勝てる戦さも勝てない。例えば突撃を仕掛けるにしても、各部隊が勝手に飛び出したならば各個に集中砲火を浴びて撃破されてしまう。命令一下、一斉に飛び出してこそ効果がある。また作戦計画は司令部にあるさまざまな情報に基づき参謀によって立てられ、司令官によって命令が下される。全体像を把握していない各部隊長にはその良し悪しを評価することなど基本的にはできない。ましてやその隷下の兵にできるわけがない。よって疑問を差し挟むことなく命令を実行せねばならない。また、命令なくして行動してはならない。

 軍隊では指揮命令系統(Chain of Command)が重視され、各人は直属の上官の命令によって行動し、また指揮は直属の部下に対してのみなされ、他の部隊や直下の者を飛び越えてその下の者に命令してはならない。でないと一人の者に別々の命令が下され、また、自分がよく状況を把握していない者に対して命ずることになり、さらには本来の上官の指揮権を奪うことにもなり、混乱を来たす。また、この指揮命令の連鎖は同時に責任の連鎖でもある。部下の過失はその上官の過失でもあり、さらにその上官の責任でもある。上官は部下に対して責任を負う。誰かが問題を起こした時、真っ先に問われねばならないのはその上官の責任である。

 これと正反対なのが暴力団で、ここでは上の者に責任が及ぶことのないよう必ずその意向を忖度して指示を待つことなく行動しなければならない。違法脱法行為を生業としているのだから当然のことと言える。一般企業でもビッグ・モーターやダイハツの事例のように、不正を働くように指示したりはしない。

 組織運営に於ては指示内容の徹底ということが極めて重要になる。曖昧な指示は不具合の原因となる。司馬遷の「史記」に「孫子姫兵(きへい)を勒(ろく)す」という孫武に関する有名な逸話がある。孫武は「孫氏の兵法」の作者とされる。王に宮女を使って軍の指揮を見せてほしいと言われた孫武は、宮女一八〇名を二つの部隊とし、王の寵姫(ちょうき)二名を部隊長に任命した。命令内容を伝えて号令したが、宮女たちは笑うばかりで動かない。孫武は「命令が不明確で徹底せざるは、将の罪なり」と再度命令内容を徹底し号令をかけたが、やはり笑うばかり。すると孫武は、「命令が既に明確なのに実行されないのは、指揮官の罪なり」と、国王の制止も聞かず二人の部隊長の首を刎ねた。そして新たに二人の部隊長を選び号令をかけると、女性部隊は粛然と命令に従い行動した。この逸話には、部下の責任を問う前に、己れの責任を追及しそれを果たさねばならない、との訓えも含まれている。

 「報連相」という言葉は、ちゃんとした企業に勤めた方なら新人研修などで必ず聞いていることと思う。これは「報告・連絡・相談」のことで、「報告」は必要な情報を上に上げること、「連絡」はそれを担当者や関係部署等に伝達すること、「相談」は正しい判断を下すため上司や先輩社員等に助言を求めたり、関係各所の者に意見を求めたりすること。これらは組織運営を円滑かつより良いものにするために必要なコミュニケーションであり、組織的行動の具体例の一つで、もし報告を怠れば上の者は必要な情報を得られず正しい判断を下せない。連絡を怠れば業務が滞ったり不具合の原因となり得る。新米社員などが相談もせず自分の頭だけで考えれば正しい判断など下せるわけもなく、時には組織に対して多大な損害を及ぼす。OSS のサボタージュ・マニュアルにもはっきりと「コミュニケーションを阻害せよ」と謳ってある。逆に、組織を守るためには「黙って仕事するな」、「空気で仕事するな」ということになる。

 こうした組織的行動の利点の一つは、社員の誰もが優秀である必要はないということ。上司や先輩社員や同僚などのフォローを受けられるからだ。誰もが優秀で、つねに的確な判断ができ行動が取れることなどありえない。そしてこれは人材育成にもつながる。放っておいても一人前になれる者は限られている。逆にやらなければ淘汰が起こり、それは離職率の高さとなって現われる。社員は育成すべきものであって淘汰すべきものではない。もし、「こんな報連相なんてものはよくない、何でも自分の頭だけで考え行動すべきだ」との認識を広めることが出来れば、これも立派な破壊活動となる。 

 不祥事を起こしたダイハツではスケジュールを守れそうにない状況に追い込まれた担当責任者が役員にそのことを報告し相談を持ちかけるとその役員は、「で、どうすんの?」と答えていたという。この言葉を解釈するに、「知るかよ、お前の責任だろ? 何とかしろよ」というようなことであろうが、これは大間違いで、役員はこの担当者と会社に対して責任を負っているのであり、より高所に立ち、より多くの情報と経験と見識を持つ者(でなければ少なくとも人の上に立つ資格はない、人事に問題がある)として、対応を考え助言を与える義務がある。このように突っぱねることは責任の放棄であり、ガバナンスの拒否でもある。このような者を訓戒、或いは処罰できるかどうかは組織防衛の鍵の一つとなる。もっともこの役員は、不正でもしなければどうしようもないことぐらい承知の上だったのではないかと想像するが。

 ダイハツの社長は会見で、責任は不正を働いた側ではなく役員の側にあると発言していて、今でもこんな筋の通ったことを言う人がいるのかと感心して聞いていたが、あれは破壊者からすれば実に都合の悪い発言で、何でもかんでも下の者に責任をなすり付ける風潮を広められれば要職にある者ほど無責任となり、日本の企業や組織、ひいては国力を殺いでいくことが出来る。

 ガバナンスの崩壊といえば、思い出されるのは安倍元総理が殺害された時の警備だが、しかしあの時現場にいた人々を責めるべきではない。彼らはどう考えても必要な教育や訓練を受けているようには見えなかった。もしそうなら、そんなことであの犯行を防ぎ得たとしたら、それは単なる敵失に過ぎない。やれない者にやらせて問題が生じた場合、その責任はやらせた側にある。事前に必要な教育と訓練を施し、組織化し役割分担を定め、しかるべき者を指揮官に任命し、「これなら大丈夫」との確信を得て初めて現場に投入しなければならない。組織というのは、プロの仕事というのは、そういうものではないか。あの事件は、破壊の進んだ今日の日本を象徴しているように思われてならない。