蓮華草のブログ

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。(中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫)

まとわり ~ 集団ストーカーの二側面と自由の剥奪

 これは元警察官で「捜査するジャーナリスト」として活躍されていた黒木昭雄さんが著書で書いておられたことだが、昔はしばしば警察の不祥事が週刊誌等への内部告発などによって明るみに出て世間を騒がしていた。しかしその後、内部告発をするとたとえ匿名であっても必ずその人物は特定され、本人のみならず、家族も延々とつきまとわれるようになり、そのようなことはなくなった。そしてこれを警察用語で「まとわり」というそうだ。具体的にどのようにまとわられるのか、また、ご本人にそのようなことがあったのかは書かれていなかったが、警察批判を繰り返していた彼は一部の警察関係者から「ネズミ」(裏切り者)と呼ばれていたことから、あったとしてもおかしくはない。2010年、彼は車中で死亡しているのが発見された。自殺とみられている。そしてこの「まとわり」は、一般社会では「集団ストーカー」と呼ばれている。

 これにはもう一つの側面がある。昨年ある者が家に来たときに、「自分には駅前に住んでいる人たちに知り合いがいる、運動は何かやっているか」と何の脈絡もなく言ってきた。これはどういう意味かというと、以前ジムに通っていたとき、駅前に住んでいる人たちの仲間と思われる女性の姿が度々見られた。駅前に住んでいる人たちというのがいかなる人々であるかは、それ以前に別の者から聞かされていた。要は、ジムに行ってそこにいる駅前に住んでいる人たちの仲間の女性を嫁にしろというような意味であろう。ずいぶん持って回った言い方だが、これほどはっきりしたメッセージを送って来るのは珍しい。しかし以前には、結婚したらやりたい仕事を何でもやらせてやると言われたこともあった。逆に言えば、でなければお前の居場所はないぞ、という意味でもある。集スト被害者には美しい女性が多いと聞いている。

 結婚相手を強制するというと某宗教団体の合同結婚式が有名だが、別の宗教団体でもそうだと聞いている。その目的は、自由を奪うことだそうだ。これは左翼集団でも同じことをやっている。

 戦前、共産主義者たちは、日本には確固たる家制度があり、これを破壊せねば共産主義を広められないと考えていた。共産社会では個人を家族や親族、地域社会から切り離して集団化させ、集団に依存しなければ生きられないようにして支配する。家制度のしっかりしていた戦前の日本では親族の結びつきが強く、お互いに助け合っていたため集団化させるのは難しかった。また、共産主義では私有財産は認められないが、家督相続により財産もよく守られていた。しかし戦後は、共産主義者たちが数多くいたGHQ民生局による民法改変等によって日本の家制度は破壊され、その効果は時がたつほど顕著となり、今ではほぼ完全に崩壊しているように思える。

 昔は核家族化が問題視され、マスコミでも取り上げられていたが、今や当然視されているかのようで、この辺りも独居老人だらけだ。やむを得ないのは承知しているが、高齢者が一人で生活していていいわけがなく、本来年寄りというものは、子や孫に囲まれ幸せに生活すべきものだ。これは今日では難しくなったが、戦前の日本では普通に行なわれていたことだ。

 戦後、家督相続の制度が廃止されると、相続権を放棄する者がいなければ、資産を分割しなければなくなった。これにより、土地や家は多くの場合、処分し現金化して分けねばならない。また、籍さえ入れてしまえば相続権を得られることになり、財産目当ての結婚も可能となった。離婚して慰謝料を得ることもできるし、子供があれば養育費をとりつづけることもできる。これがビジネスになっているなどという話もある。

 人間集団には大きく分けて二つある。一つは国家や社会に守られてきたグループで、日本人の大半はこちらに属する。国家に守られているということは普段はそれを意識しないが、とくに海外で終戦を迎えた人々は、国家の庇護を失うということがどれほど恐ろしいことかを身をもって体験した。そしてもう一つは、逆にそうしたものから身を守ってこなければならなかったグループで、この二つは基本的に価値観を共有できない。前者は国家により保障された法秩序によって守られており、統治されることに何の抵抗もなく、そのことに恩義を感じ、国家や社会に対してその恩に報いたいと考え、その役に立つことを喜びとして感じる。そして法を守ることが自らを守ることと同義であり、また法さえ守っておれば、あとは自由に生きて行くことができた。

 近年SNSの普及もあり、ますます人々の集団化が進んでいるように思える。集団内では自己決定権はなく、自分のありようを自分で決めることはできない。自由に考え、自由に意見を述べることもできない。集団化された人々に自由はない。そんなのは真っ平ごめんだと考える者は、そのような価値観を持つ者は、今ではそう多くはないのかも知れない。自由を尊重し愛する者は他者の自由も尊重する。でないと自由なんてものは守れない。しかし今や何とかして他人から自由を奪おうとする人々の何と多いことか。自由が憎いのであろうか。共産社会では政治的にも、思想的にも、そして経済活動においても自由はない。集ストというのは、もともと共産主義諸国で行なわれていたものとの説がある。これが真相なのではないだろうか。