蓮華草のブログ

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。(中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫)

地道な破壊活動 #3 日本社会の地盤はなぜ液状化してゆくのか

 「転職ブーム」という言葉が使われ始めたのは、ネットで調べるとリーマンショック以降のようだが、 一九八九年にはすでに以下のような転職を推奨するようなCMが放映されていた。この頃はバブル真っ只中で、終身雇用の維持が難しくなっているような時期ではない。

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 終身雇用というのは日本の封建体制の名残であると考える。左翼学界ではどう言われているか知らないが、封建制が専制支配体制と大きく異なる点の一つは、その双務性にある。鎌倉幕府の成立によって始まった日本の封建体制では、これは「御恩・奉公」の言葉で表わされる。御家人たちは幕府(公)に対して忠誠を誓い、様々な役務や経済的負担を負い、いざ事あるときには身命を賭して戦った(奉公)。代わりに御家人たちは父祖伝来の土地の領有権を保証された(本領安堵)。領地をめぐって争いを続けてきた御家人たちにとって、これは非常に大きな恩恵であった。そしてこの封建的な御恩と奉公という双務的な関係は、社会の道徳や価値観の基をなすものの一つとなった。これは武士だけのものではなく、例えば日蓮は「報恩抄」で親や師や国から受けた恩に報いんとする固い決意を述べている。そして、この「所領の安堵」は現代に置き換えれば「雇用の安堵」、つまり、「終身雇用」に当たるというわけだ。

鳥と、けもの。鳥獣。また、恩義を知らず、道理をわきまえない人のたとえ。

禽獣(きんじゅう)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

 終身雇用の弊害として、安心してしまって努力しなくなる、向上心がなくなるなどとされるが、それは違う。これは人、心の持ちようや価値観によるが、少なくともかつての日本人は雇用を安堵されていることに恩義を感じ、であるからこそ、懸命に働いたのだ。いつ追い出されるかわからぬ会社のために献身的に働こうなどと考える者はいない。ただカネのため、或いは己れのキャリア・アップのためだけに働き、より良い条件を他所から提示されればとっとと転職していくであろう。

 封建体制では中央集権専制支配体制と異なり、封建諸侯は一国の主(あるじ)であり、独自の所領と行政組織、そして独自の軍事組織を持っていた。そして、もしこれらが協働して反旗を翻せば体制は滅びるという潜在的な緊張関係にあった。武士たちがなぜ死をも恐れず勇敢に戦うことができたのかといえば、一つには、たとえ自分が死んでも世継ぎさえいれば後に残った家の存続は保障され、また目立った矢働きがあれば報奨に与ることができるという信頼があったからである。これが失われれば体制は崩壊に向かって行く。実際、元寇の後、防衛戦の宿命として十分な報酬を与えられなかった鎌倉幕府は崩壊していった。また幕府側もその忠誠心が疑われる領主に対してはそれなりの対応を取らなければならない。江戸時代、とくに信頼度の低い遠国の外様大名たちは参勤交代で多大な経済的負担を強いられた。フランスでは、封建諸侯を信頼できなかった国王が、その領国の統治権を取り上げて絶対王政が出現し、封建体制は崩れ去った。このように、封建体制は双方の信頼の上に成り立ち、これが失われれば終わりを迎えるという性質がある。

 なお、封建体制が世界で初めて成立したのは中国の西周の時代とされ、その後の春秋時代の動乱を生きた孔子はこれを理想とした。その後、中国では封建制は否定され、東洋的専制主義(Oriental Despotism)の国となり、孔子の夢が叶うことはなかったが、しかし日本では、江戸時代に封建体制が完成してそれは実現し、泰平の世となった。そして武士のみならず、庶民たちまでもが論語を読み、孔子の理想とした徳治、力による統治ではなく徳をもって治めることや「仁」を学び、それは日本の社会に大きな影響を与えた。

 昭和の時代、確かに御恩・奉公という封建的価値観はまだ生きていた。終身雇用によって雇用を安堵された従業員たちは会社を信頼し、恩義を感じ、忠誠心を持ち、献身的に働き、会社の将来のために後進を育成することを当たり前のこととして考え、定年まで勤め上げることを良しとしてきた。今さえ自分さえ良ければいいとは思っていなかった。会社の側もこうした社員の信頼・忠誠・献身に応え、また安心して惜しみなく人材育成に時間と金を注ぎ込むことができた。だがやがて終身雇用も徐々に廃れ、雇用が流動化してくるにつれて、いつ辞めていくかわからない者に金と時間をかけて育成するなどバカらしいということになり、また、他社に技術やノウハウが漏れることを恐れ、肝心なことは教えられなくなった。さらには、社員を単なるコストと考え使い捨てにするブラック企業なるものも登場してきた。

 これは亡くなられた関岡英之さんが番組で仰っていたことだが、彼が銀行員として中国で勤務していた時、現地採用した者の一人を日本に派遣して研修を受けさせた。当然、他の者とも研修で得た知識を共有し、そこで手に入れた資料を見せることを期待していたが、その社員は何も教えることはなく、資料については、これは俺のものだと決して見せようとはしなかったそうだ。そして数年後、その者は他社に引き抜かれて退社していった。しかし、これは何も中国人に限った話ではない。その昔、一九九〇年代初め、日系人労働者の受け入れが始まった頃、受け入れ企業向けの講習会に出たことがあったが、そこでも、南米からやって来た日系労働者たちは、自分の得た知識やノウハウを人に教えたりはしないと聞かされた。雇用の安堵などというものは諸外国にはない。いつ自分の地位が失われるかわからぬ者が他の者に自分の得た知識やノウハウを教えたり、後進を育成したりはしない。そして、今や日本人も同じようなことになってきている。これはなぜかといえば、封建的な価値観が失なわれ、会社への忠誠や信頼、感謝というものがなくなってきていることが大きいと思われる。少なくとも、従業員を単なるコストと考えている会社に対してそのようなものを抱く者などはいない。

 封建的な価値観の対極にあるのは契約による労使関係であろうが、その代表の米国では徹底した成果主義がとられ、働きぶりがこと細かに査定され、能力があり実績を上げている社員の報酬はどんどん引き上げられ、逆に成果を上げなければ減給され、役に立たないと判断されれば解雇される、と聞いている。日本には、そのようなシステムを持つ企業はおそらくごく一部の優良企業だけであろう。土壌が違うのだ。終身雇用もない、年功序列もない、実力主義もないとなれば、後に残るのはネポティズム(縁故主義)くらいのものだ。

 双務性の話に戻す。今の日本では片務性が目立ち、一方的だと思うことが多い。これは日本の社会から封建性が失われ、専制性が高まっているからである。専制社会では上の者が常に正しく、義務は下の者が上の者に負うのみで、上の者が下の者に対して責任を負うことなどない。封建社会を生きてきた人々が考えてきたことは、身分の上下を問わず、自分の属する家や社会や国のために自分に何ができ、何を為すべきかであり、他人に何をさせるかではない。

 最後に年功序列について触れておく。これは書名も著者名も忘れてしまったが、スウェーデンだったか北欧の国の男性と結婚し、そこで暮らしていた日本女性が書いた本に出てくる話で、ある日、夫が著者に対して、年功序列などの日本の労働慣習は全く正しい、としみじみと語ったという。なぜかというに、キャリアを重ね地位も上がっていく毎に、歳を取り気力も体力も衰えていくのに反比例して、仕事はどんどんきつくなっていく。その点日本では、しんどい仕事は若い者がやり、ベテランになるにつれて指導者的な存在となっていく。多く仕事している若者よりも仕事量の少ない者の方が高給を取っているのは不公平だと思う者もいるかもしれないがそれは間違っている。なぜなら、やがて自分もキャリアと年齢を重ねて行けば、同じ身分になるからである。完全に平等である。もっとも、これも終身雇用が維持されていればの話ではあるが。

 これとよく似た話が『逝きし世の面影』に嫁と姑の関係で出てくる。家の切り盛りは女性たちに任された重要な仕事で、とくに姑が中心となって行なっていた。姑の采配に従う嫁は確かに大変ではあったが、やがてはその嫁も同じ立場になるのである。姑は、自分も体の動くうちはいいが、そうでなくなってきたならば、体は嫁が動かし、姑は口を動かせばいい。近年、自分も家事、とくに料理の方はだいぶ上達してきたが、それは全く牛の歩みで、今後も大したレベルにはならないであろう。しかし、もしすぐれた姑の指導を受ければ、一年で十年分以上のスキルアップも望める。かつて日本人はずっと、先人たちが積み上げてきたものを受け継ぎ、それに上乗せして後世に伝えることを当たり前のこととして考え、実行し、発展してきた。それを怠れば必ず後退していく。自分一代の蓄積、個人の能力なんてものは、高が知れているのだ。