蓮華草のブログ

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。(中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫)

「自由」がもたらした混乱と、封建体制下の「自由」

 「自由」は福沢諭吉の作った訳語と思っていたが、柳父章著『翻訳語成立事情』によると実はそうではなく古くからあった言葉で、これは禅僧が「とらわれの無い境地」の意味で「自由解脱」と表現するなどいい意味で使われている例はあってもそれは少なく、多くは我がまま勝手などの悪い意味で使われていたとのこと。福沢は『西洋事情』で、「自由」は「我儘放盪にて国法をも恐れずとの義に非らず」とことわりを入れ、freedom や liberty には「未だ的当の訳字あらず」と述べている。訳語として「自由」は適切ではないとさとった幕末明治の知識人たちは「自主」の言葉を使うなどして極力この語を避けていたが、結局はこの但し書きが必要な「自由」が定着した。

 「自由」がもたらした混乱の事例として『翻訳語成立事情』には柳田国男の体験談が紹介されている。彼が五つか六つの頃、自由民権運動華やかなりし時に、若い博徒が家の門口に泥酔して寝ていた。それを立ち退かせようとするとその者は、「自由の権だ!」と怒鳴り、そのとき柳田国男少年は、運動の首領である板垣退助に反発を覚えたそうだ。

 生きて行く上に於て何らかの束縛や拘束から解放されている状態という本来的な意味での自由を渇望するのは、専制政治などによる抑圧や隷属状態に置かれている人々で、英国による植民地支配を受けていた米国が自由や民主主義を掲げてきたのは自然であるのに対して、日本の場合、戦前までは歴史的に他国や異民族による支配を受けたことがなく、このような国で自由思想が発達せず、freedom や liberty に相当する言葉がなかったこともまた自然な話。

 日本の国民性を形成してきたのは長く続いた天皇を中心とした封建体制であろう。左スジでは封建制=悪とされているが、あれは封建制が専制支配体制であるかのように誘導しているだけで、実際は封建制では封建領主が自治権を持っていたのであって、本来封建制は専制支配体制でも中央集権体制でもない。日本の場合はそもそも君主である天皇は統治権を持っていなかった。この点フランスの絶対王政は封建体制が破壊されてできた国王による専制支配体制で、フランス国王は貴族(封建領主)を信用していなかったためにその統治権を取り上げ、中央から地方行政官を派遣し統治させていた。貴族たちは本来自分たちがやるはずの行政や治安維持などの仕事をせずに税金だけを徴収し、田舎貴族は領地を離れてパリに住んでいた。しかも住民たちは領主のみならず国王と教会にも税を納めねばならなかった。これでは住民の怨嗟が高まるのは当然のこと。

 一方、日本の徳川幕藩体制に於ては、各藩に自治権が認められていたのはもちろんのこと、それは住民たちにも広く認められ、武士たちは民の細かなことに干渉することはなく、領民は武士の姿を見かけることはあってもほとんど接点はなかった。そして幕府の財政は直轄地(天領、公領)から徴収される税によって賄われており、各藩には幕府に税を納める義務はなく、藩の領民は藩に、天領の民は幕府にのみ税を納めればよかった。さらに税収の大半は年貢米であり、町人たちは基本的には税を納める義務はなかった。渡辺京二著『逝きし世の面影』では西洋からの観察者たちが幕末日本の物価の安さに驚いたことが紹介されているが、このような租税制度もその大きな理由の一つであろう。フランスにおいても本来は国の財政は王室領からの税で賄われるものであったが、日本の江戸時代が戦乱のない平和な時代であったのに対し、欧州では戦争が繰り返され戦費等が必要であったため、そのようなわけにはいかなかった。

 日本は東洋的専制支配体制で全く自由のない国と聞かされていた西洋人たちは、実際に江戸時代の日本に来てみると、圧政に苦しんでいるはずの人々が明るく楽しそうに暮らしているのを発見し驚いた。確かに、封建体制の日本には身分制度があり世襲制で、武士の子は武士、百姓の子は百姓であり、職業選択の自由などというものはなかったが、しかしこれは悪いことばかりではない。余程の過失がなければ地位を失なう心配もなかったし、立身出世などということを考える必要もなかった。「競争」という言葉は、これは福沢の造った competition の訳語で、それまでの日本には競う、争うという言葉はあっても、競争するという概念はなかった。時に争うことはあっても競争はなく、保身に汲々とする必要もなく、物価は極めて安く僅かの収入でも生活できた。飢饉でも起きなければ生活の心配もなかった。これは明治時代の話になるが、英国の日本語学者・日本研究家で東京帝国大学教授を務めたバジル・ホール・チェンバレンは、日本には「貧乏人は存在するが、貧困なるものは存在しない」と述べている。

 自由の中で最も根源的で重要なものの一つは圧政や抑圧からの自由・解放であろうが、江戸期はどうであったか。もちろん時にそれはあり、一揆が起こることもあった。しかし、そのようなことがあれば藩主には改易などの重い罰が幕府によって科された。島原の乱を起こされた藩主、松倉勝家は大名としては唯一、切腹は許されず打ち首にされた。日本は一揆を起こされるほどの悪政を敷いた藩主が、その罪を免れられるような無法国家ではなかった。また昔の時代劇では悪代官なるものが登場するが、実際には彼らは幕府の役人であることに誇りを持っていたため、そのような者はほとんどいなかったそうだ。

 この圧政や抑圧の最たるものの一つは思想や信条、信仰の自由の剥奪であると考えるが、これについては、例えば確かに江戸期の日本ではキリスト教は禁じられていた。しかし、いわゆる隠れキリシタンの家にはキリスト教の祭壇があったことが知られている。この事実は、幕府や藩の役人たちは、家探しまでして取り締まろうとはしなかったことを示している。おそらく公にしさえしなければ、隠れて何を信仰していようが構わなかったのであろう。つまり、行動に制約を加えることはあっても、心まで支配しようとはしなかった。これは、日本人の多くが理解できることと思う。自分に対して誰かが腹に一物持っていようが、害さえなければ別に気にはしない。日本の社会にはそれだけの信頼関係があった。互いの心を監視し合う必要などなかった。そして、日本の為政者たちは様々な自由を制限はしたが、魂の自由まで奪おうとはしなかった。これらのことが、かつての日本人たちが、貧しくはあっても、明るく楽しく幸せに暮らしていくことができた最大の理由だったのではないかと思われてならない。