蓮華草のブログ

ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。(中村元訳『ブッダの真理のことば・感興のことば』岩波文庫)

釈尊の登場

 釈尊の生きていた年代は諸説あるそうが、中村元先生によれば紀元前五世紀頃で、この頃のインドは商工業が発達し、貨幣経済が栄えて都市部に富が集中し、富裕層が生まれ、カネが物を言うようになり、王さまなどよりカネのあるやつの方がエライという世となっていた。

 たとい奴隷であろうとも、財宝、米穀、金銀に富んでいるならば、王族もバラモンも庶民も、かれに対して、先に起き、後に寝て、進んでかれの用事をつとめ、かれの気に入ることを行い、かれには快いことばを語るであろう。(『マッジマ・ニカーヤ』)
中村元『原始仏教』

 物質的に豊かになったのに伴って社会は享楽的になり、バラモンたちも堕落して行った。今に伝わる仏典の中で最古のものと考えられている『スッタ・ニパータ』には次のように記されている。

 かつてバラモンたちは名声を持ち、みずからのつとめに励み、かれらのいるあいだは、この世の人々は栄えしあわせであった。時代がたつにつれ、かれらに誤った見解が起こった。王族の栄華とその女人たちの装い、駿馬(しゅんめ)の馬車、広壮な邸宅を見てバラモンたちもかれらのように享楽を得ることを熱望した。そしてかれらは「ヴェーダ」の聖典を編纂して王にまみえ、祭祀を行い、供養をなし、多くの財物を布施するように求めた。こうして富を持つバラモンたちがあらわれた。

 バラモンたちはその富を蓄積することを願い、ふたたび「ヴェーダ」を編纂して王にたいして牛を供犠とする祭祀を行うことを求めた。

 多くの家畜が祭祀のために犠牲となった。そのために人々のあいだに九十八種の病がはびこった。さらに王族の争いが起き、シュードラとヴァイシャも争い、夫婦もいさかいが絶えず、みな欲望に支配される社会となってきた。
中村元『ブッダ伝 生涯と思想』

 このような頽廃的な社会状況の中でそれまでの価値観が崩れ、思想の混乱が起き、釈尊の在世中には唯物論や快楽主義などを唱えた六師外道と呼ばれる思想家たちが勢力を誇っていた。「外道」とは仏教者が仏教以外の教えのことをいったもの。

 当時、異端的な思想を唱えた代表的な思想家は六人おり、これを「六師」とよんでいます。プーラナという思想家は、生き物および人間の身体を切断し、苦しめ、悲しませ、おののかせ、生命を奪い、盗みをし、家宅侵入・略奪・強盗・追い剥ぎ・姦通・虚言などをしても、少しも悪をなしたのではない、といって道徳を否定しました。

 またパクダによりますと、人間の各々の個体は七つの集合要素、すなわち地・水・火・風の四元素と苦・楽と霊魂とから構成されていて、これらの要素は独立不変のものである。だから人を殺しても構わない。鋭い刃をもって人の頭を断つとも、これによって何人(なんぴと)も何人の生命も奪うこともない。ただ剣の刃が七つの要素の間隙を通過するのみであるといいました。

 またアジタは唯物論を主張しました。地・水・火・風の四元素のみが真の実在であり、独立常住である。人間はこの四元素から構成されていて、人間が死ぬと四元素が分解し、あとには何も残らないといいました。この立場からは、「生きている間は快楽を享受せよ」という快楽論が出てくるのです。

 他方マハーヴィーラが開祖となったジャイナ教では、人間の行為の結果である業が、人間の霊魂を汚(けが)し束縛しているのであるから、苦行によって心身を浄め、霊魂の本性を明らかにしなければならないと教えました。

 このように種々の異論が行なわれていたので、人々は帰趨に迷い、はては判断や思考を全部中止してしまうことを説く懐疑論者も現れました。サンジャヤがその代表的な懐疑論者です。
中村元『原始仏典』

 このように思想的にも道義的にも混乱した世に、釈尊は裕福なクシャトリア(王族)の王子として生まれ、シッダールタ太子と呼ばれた。仏伝によれば当時の風習により十六歳で妻をめとり、ラーフラ(羅睺羅(らごら))という息子が生まれた。この知らせを受けたとき、太子はこう言ったという。

 「ラーフラが生まれた。束縛が生じた」

 「束縛」は「絆」と訳されることもあるが、絆とは家畜などをつないでおく綱のことで、もともといい意味ではない。

「妻子といふもの無始曠劫(むしこうごう)より以来(このかた)、生死(しょうじ)に流転(るてん)するきづななるがゆゑに、仏は重ういましめ給ふなり」(『平家物語』)

第479回 かつて「絆」はいい意味の語ではなかった - 日本語、どうでしょう?

 そして太子はこの絆を断ち切り、妻子を残し、裕福な生活を捨てて出家した。二十九歳であった。

 その後太子は二人の著名な仙人から禅定を学んだ後、さとりを得るため六年(または七年)の間、付近の山林で過酷な苦行の日々を送ったが、願いが叶うことはなかった。

 そのときわたくしはこう思った。──およそ過去に……およそ未来に……およそ現在に道の人あるいはバラモンで、急激な苦痛の感覚を受ける人々があるとしても、わたくしが受けたようなものは最高で、これ以上のものはないであろう。だがわたくしはこの激しい苦行をもってしても、なお、人間を超えた、まったき妙(たえ)なるすぐれた智見に達することができない。おそらくは、さとりにいたるには他の道があるのであろう、と。(『マッジマ・ニカーヤ』)
中村元『ブッダ伝 生涯と思想』

 山林を出て沐浴し身を浄めた釈尊は、付近の村の少女スジャータから乳がゆの供養を受けて体力を回復させ、菩提樹の下で瞑想に入り、魔による攻撃や誘惑に打ち克ち、ついにさとりを得てブッダ(覚者)となった。三十五歳の時である。

 初めての説法(初転法輪)は五人の修行者に対して行なわれ、そこでは次のように説かれた。

 修行者らよ。出家者が実践してはならない二つの極端がある。……一つはもろもろの欲望において欲楽に耽(ふけ)ることであって、下劣・野卑で凡愚の行いであり、高尚ならず、ためにならぬものである。他の一つはみずから苦しめることであって、苦しみであり、高尚ならず、ためにならぬものである。真理の体現者はこの両極端に近づかないで、中道をさとったのである。(『サンユッタ・ニカーヤ』)
中村元『ブッダ伝 生涯と思想』

 中村元先生は中道について別の所で、「真理への道は苦と楽の中間にある」とも表現しておられる。

 こうして布教を始めた釈尊は、相手の置かれている状況や資質に応じて法を説き示した(対機説法)。釈尊から直接教えを受けた尼僧たちによる詩を集めた『テ―リー・ガーター』にあるキサー・ゴータミー尼の告白によれば、彼女は自分の子を亡くした時、その亡骸を抱いて、「私の子を返して下さい、私の子に薬を下さい」と泣きながら町を歩き回っていた。それを見た釈尊は、「いまだかつて死人を出したことのない家から芥子(けし)の粒をもらってきなさい」と言った。彼女は家々を訪ねて回ったが、どこにも死人を出したことのない家などないことを知り、人生の無常をさとり、出家した。

 インド仏教はその成立から約一六〇〇年間存続したが、一三世紀初頭に消滅してしまう。この理由について『今村均回顧録』に、日蓮宗の僧侶、木村日紀(にちき)師が語った内容が紹介されている。

「原因はいろいろあります。が、そのおもなものを一、二挙げてみますと、釈尊仏教滅後の仏教が、次第に哲学的になり、昔の印度民衆の文化程度では、とても理解しえない、むずかしい宗教となってしまい、迷信的な点はあっても、直接民衆を相手とする、バラモン教(後の印度教)が再び勢力をもりかえし、仏教をおしのけるようになったこと。それから仏滅後二百余年、アソカ大王の絶大の保護を受け、仏教は五大天竺に普及したものの、安易は、すべて進歩を阻止し、僧侶は、壮観の寺院生活にみち足り、民族感化の熱意を消磨し、例えば人民から、

 『おしょうさま! 地獄、極楽の、その極楽にまいりますと、どんな気持になるものでしょう』

 ときかれると、

 『ちょうどこの世で、生をたのしみ得るものだ』

 などと平易に説いたため、だんだんに、寺院内に多くの婦女子をたくわえ、布施を多くだすものには、美しい女を配してこれを取りもたせ、いわゆる極楽境を感ぜしめることになったものです。こんなことから、次第にバラモン教との競争におくれ、次で仏滅後千百数十年の時、西方アラビヤ方面から、イスラム教(マホメット教)徒が印度に侵略してまいった時、仏教を堕落宗教と認めて僧侶を印度外に追放し、寺院を破壊焼却の上、人民の改宗を強要した等のため、ここに全く仏教は影を失ない、民衆は印度教徒イスラム教徒の二つにはいってしまい、この時国外に走った仏教僧侶の大部分は、セイロン島やビルマそれに東方及び南方の諸島に向かい、また北方にはいったものは、チベット、新疆、蒙古などに移り、布教につとめるようになりました」

 こうした腐敗の予兆は釈尊の存命中にすでに表われている。下記文中のデーヴァダッタ(提婆達多(だいばだった))は仏弟子の一人。サーリプッタ(舎利弗(しゃりほつ))とモッガラーナ(目犍連(もくけんれん))は二大弟子と呼ばれ、いずれもかつては六師外道の一人サンジャヤの弟子であったが、他の弟子たち二百五十人とともに釈尊の弟子となった。アジャータサットゥ(アジャータシャトル)は漢訳では阿闍世(あじゃせ)と表記される。

 『律蔵』の記すところによれば、ブッダが王舎城の竹林精舎に帰ってくると、修行僧のなかに、デーヴァダッタがアジャータサットゥ王子から供養を受けてたいしたはぶりです、ご注意くださいと忠告する者がいました。ブッダは名利によって得るものは少なく、失うものが大きいのだとさとすのでした。

 ブッダが大集会で法を説いているときのことでした。説法が終わると、デーヴァダッタが前へ進みでて、「あなたも高齢になられました。この教団は私におまかせになり、余生を安穏にお過ごしください」と進言しました。もちろんブッダは断りました。三たび繰り返して強要するので、ブッダもついに声を荒らげ、「サーリプッタやモッガラーナにでさえ、まだまかせていないのに、ましてやお前ごとき者にまかせられるか」と拒否しました。彼は大衆の面前で自尊心を傷つけられ、いろいろな陰謀をめぐらすようになります。

 他の人に命じてブッダを切り殺そうとしたり、また山上から岩石を落として殺そうとしたり、凶暴な象をけしかけて殺そうとしたと伝えられています。しかし悪い企てはことごとく失敗に帰しました。

 そこでデーヴァダッタは、自分の庇護者だったアジャータサットゥ王子をそそのかして、クーデターを起こし、王子を王位につけます。一方、仏教教団内では、五つの極端な苦行を定め、これを守るようにブッダに強要してゆきますが、これも拒否されます。かれは新参者の修行者五百名を連れて教団を分裂させようとしました。しかし、サーリプッタとモッガラーナが出向き、「真実の道」を説いてすぐ連れ戻したと経典では伝えています。

 名誉欲や利欲は人間を駄目にするものだと、神のことばを借りて伝えています。

 梵天は、デーヴァダッタについて、尊師のものとで、この詩をとなえた。──
 「芭蕉は実が生(な)ると滅びてしまう。そのように、悪人は尊敬を受けると滅びてしまう」(『サンユッタ・ニカーヤ』)

中村元『ブッダ伝 生涯と思想』

 釈尊やジャイナ教のマハービーラを庇護していた父王ビンビサーラを幽閉し殺して王位についた阿闍世王は、後にこの時の自分の行ないを悔い、釈尊に帰依するようになり、釈尊の死後には「第一結集(けつじゅう)」の支援をしたとされる。これは仏教史上最も重要な出来事の一つと思われるので、また別の所で取り上げたい。

 物質文明が発展し、何が正しくて何が間違っているのかわからくなり混乱した世に釈尊は生まれ、法を覚り、そしてその法を説き示し、あるいは法を覚らせ、法にかなった如法の生き方を勧め、人々を導いた。そしてその死後も、導き続けたのである。

 いよいよ最後のときに臨んで、ブッダは次のように説きます。

 「アーナンダよ。あるいは後にお前たちはこのように思うかもしれない、『教えを説かれた師はましまさぬ、もはやわれらの師はおられないのだ』と。しかしそのように見なしてはならない。お前たちのためにわたしが説いた教えと私の制した戒律とが、わたしの死後にお前たちの師となるのである」(『マハーパリニッバーナ・スッタンタ』)
中村元『ブッダ伝 生涯と思想』